オジサンのよたよた話し


白い指

スラバヤで仕事をしていた頃、断食あけの休みを利用して、みんなでボロブドゥールまで遊びに行くことにした。

断食というのは、戒律通りだと、とても厳しいものである。太陽が出ている間は、何も体内に入れてはいけない。食べ物や水だけではない。唾液を飲み込むのも許されない。煙草も駄目。男女関係も、同じ理由で駄目。太陽が昇る前に、身を清めて、お祈りに出かける。1日5回だったかな(?)の、お祈りも欠かせない。回教寺院から、断食の時間が終わったよ~という叫びが聞こえるまでは、何も食べられないのだ。それが1ヶ月続く。皆、ふらふらになるから、ほとんど仕事にはならない。でも、会社は休みというわけではない。この時期は、メッカ巡礼の季節でもあるから、町の通りには、テントを売る店が並びはじめる。黄色や赤色の小さなテントである。これをかついで、団体旅行のメッカ巡礼の飛行機に乗る。たくさんのチャータ便が飛ぶ。1回、行ってみたい気がするが、メッカだけは回教徒でないと入れないらしい。そのために、割礼なんて痛い目にはあいたくない(あれは、感じさせないようにする効果があるらしい・・・深くは聞くな)。

この断食月は、星を見て、回教の偉いお坊さんが決めるらしい。だから、カレンダーにも、ほぼ断食月の日にちは書いてあるが、最後の判断をするのは、星を見ているお坊さんらしい。太陰暦が基本だから、毎年、断食月がずれてくる。
断食の時刻も、回教寺院からの声で決まるようだ。まあ、赤道直下の国では、1年を通じて、ほぼ朝の6時頃に、ポカリと夜があけて、夕方6時に、ポカリと夜になるから、まだ助かる。断食月が真夏になったりしたら、北の国では、昼間が長いから断食も長くなるのだろうか。太陽が出ている時に食事ができないのでは、白夜の国では回教は成立しないのではないかと思ったりする。
ポカリと夜があけて、ポカリと夜になると書いたが、これが実に不思議な感覚なのだ。私達は、夜が次第にあけて行く時の様子や、たそがれ時の余韻を詩歌にしている民族であるが、そんな曖昧な時間が、赤道直下の国には存在しない。唐突に昼になって、あれっと思った瞬間に夜になっている。

それは、さておき、断食月があけると、ハリラヤと呼ばれる休みになる。誰もが、新しい服を着て、お土産を一杯かかえて田舎へ帰って行く。都会に働きに出てきている住み込みのお手伝いさん達も、1年に1度の、故郷へ帰る休みがもらえる。夜の町で、男を相手にしていた女達も、故郷に残した子供や年老いた親のところへ帰って行く。昔の、薮入りというか、お盆休みのようなものだ。オフィスでも、仕事にならない。だから、私達も休みだ。町の店の多くは閉まってしまうが、それでも、ハリラヤには、どこかうきうきした感じが街にあふれている。満員のバス、列車の屋根の上にまで乗った膨大な乗客(いつ頃からか、そんな光景は見なくなって、今は冷房付きのバスや奇麗な列車が走っている)。

ハリラヤの休みを利用して、スラバヤからボロブドゥールへと車で向かった。丁度、選挙のシーズンであった。選挙の時は、各政党が日付を決められて、大規模な集会やデモがある。政治への不満が、しばしば暴動につながる。軍隊との衝突、放火、略奪(最近でも、状況はあまり変わりない。5月の日記に今年の選挙デモの写真が載せてあります)。なにが起きるかわからない。その年の選挙も荒れていた。政治家や扇動家達は、子供達をデモの全面に立てて、バイクに乗った若者達に騒がせる。エキサイトした子供や若者は、時として制御がきかなくなる。陰に隠れた大人は、そんなことは承知の上でやっているのだろう。

ソロの町にさしかかった頃、車は、そんな中に巻き込まれていた。ソロは、普段は静かで美しいジャワの町だ。デモの隊列やトラック、バイクの中で立ち往生した。わずかに人の流れと一緒に、少しずつ進んでいた。しばらくしたら、急に前が開けた。街の広場の中に入っていた。デモ隊がびっしりと囲んでいる。急に前が開けたのは、軍隊とのにらみあいの真ん中につっこんだからだ。そこには不気味な静寂があった。
次第に群集が騒ぎ始めた。こちらは外人である。デモ隊に近づくよりは軍隊の方が少しはましというものだ。右手に群集、左手に軍隊。軍隊は壁際まで追いつめられていた。ずらりと並んだ兵隊の間に切れ目はない。とにかく、この状況から抜け出さなければ・・・。こういう時には、皆、饒舌になるものだ。友人の家族と一緒に車に乗っていたのだが、「こりゃぁ、本当にヤバイよねぇ」「衝突が始まったら、窓が割られるかなぁ(そんなもんで済むわけがないのだが)」、会話が弾む。運転手の顔は引き攣っている。「あのあたりに、切れ目がありそうだねぇ」「あっちの方に道はないかなぁ」、群集の中で、抜け出す方向がわからない。

車の左手の軍隊は、全員、機銃を構えている。腰だめにした銃口は、まっすぐ群集に向けられている。前列の兵隊の間から、後列の兵隊の銃口が出ている。その前に居る我々の車など無視して、兵隊達の視線は、まっすぐ群集を見ている。普段だったら人懐っこい視線や言葉でもかけてくれる人達でも、こういう時は、本物の軍隊である。外人の車を逃がしてくれるかと思ったら甘かった。指揮官も、群集を凝視して微動だにしない。暑い陽射しの中で、微動もしない兵隊と、大声で騒ぎながら、軍隊の方に押し寄せたり後退したりしている大群衆。
銃口の位置が、丁度、車の窓の位置にならぶ。微動だにしない銃口を見ながら、その変な静寂の空間を少しずつ進む。兵隊の褐色の手が、引き金にかけられているのだが、その指先だけが、真っ白になっていた。軍服、機銃、肌の色、どれもが黒っぽい色彩の中で、引き金にかかった真っ白な指の列。その異様な白さを見ながら、「軍隊も恐いんだよね」とか話していた。ふっとみつかった人の切れ目に向かって、運転手は疾走した。 そんなわけで衝突にも巻き込まれずに旅を続けたのではあるが、今でも、あの時の白い指先の列だけは忘れられない。この国の軍隊を見ると、ずらっと並んだ白い指が空中に浮かんでいる光景を思い出してしまう。

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