オジサンのよたよた話し


トランク1つの人生

2月の、その日は、東京に雪が降っていた。山の上ホテルをチェックアウトした私は、通りまで出てきたところで、トランクを置いて腰掛けた。「さて、どうしようか」と思った。帰るような場所はないのだ。
コートを着た人達が、寒そうに、朝のお茶の水駅から坂道を下っていた。自分が着てるものは、Tシャツと夏物のサファリにジーンズだけ。しかし、寒さは感じなかった。アフリカの太陽の中で、皮膚の温度感覚が麻痺していた。昨日、羽田空港に着いた。当時の国際空港は羽田であった。空港に着いた時、ポケットには50円しか入っていなかった。仕事のために預かっていた金は、すべてカジノ台で使い果たしていた。

ポケットに入っていた金で、空港から会社に電話をして迎えに来てもらったのだ。家は、旅に出る前にひきはらっていた。貯金なんて面倒なものは、まったく無い現金主義者だ。要するに馬鹿である。会社は、1晩だけ山の上ホテルをとってくれた。しかし、1晩だけだ。会社の金を使い込んで帰ってきたような奴には、これでも最大限の親切である。
今日は、休みをもらっていたが、会社以外には行き場所はない。でも、今までトランク1つで旅をしてきたのだから、これ1つあれば十分なはずだ。「ままよ、トランク1つの人生よ」。それだけ結論が得られた所で、タクシーを止めた。迎えに来てもらった時に借りた金があれば、タクシーで会社へ行ける。それ以外に、当面の雨露をしのげる場所はない。雪は、まだ降り続いていた。

それから、あちこちでの居候生活が始まるのだが、「トランク1つの人生」が、それからの人生で続くとは、さすがに予想だにしなかった。

かくて、私の居候生活が始まったのであるが、最も親切だったのは、会社の社長であった。彼の家には、何ヶ月もお世話になった。しかし、その後、彼が付き合っていた彼女と結婚して、会社に居辛くなって転職することになってしまったのだから、私は、迷惑ばかりふりまいて生きてきたのかも知れない。もっとも、他人の彼女を奪って結婚したが、うまくは行かなかった。そして、未だに独り身である。
朝、目が覚めると、ほとんどの場合、社長は会社へ出かけていた。ごそごそと、2階から降りて、寝ぼけ眼で食堂に入って行くと、元気なお母さんが、朝御飯を作ってくれる。食事をしながら、お母さんと世間話などしていると、いつのまにか時間がたって行く。昼過ぎに、ようやく会社へ出かける。そんな生活を続けていた。
ちなみに、居候をさせてもらった社長の曽祖父は、坂本竜馬を斬った1人だと言われている。動乱の時代を経て、静岡へ移ったりしながら、東京に居を構えたそうだ。

さすがに、社長の家に居候して、しかも、社長よりも遅く出勤して、だらだら生活しているのは、ずうずうしいにも程があるかなと思い始めた。時々、他の友達の家に転がりこんで、御飯を食べさせてもらうのが、自分なりの迷惑を減らす努力かなとは思って、あちこちを彷徨っていた。丁度、年齢的に、友人達が結婚した時期で、新婚生活の家では、居候しにくくなっていた。
とは言え、金はまったくなかった。家を借りるような金もなければ、家賃も払えない。その日の食事代すら、事欠くありさまだ。給料を前借りして、当面の生活費に当てても、それは返さなければならない金である。居候している限り、家賃も食事代もかからない。節約しようなんて気もないから、入ったお金は、すぐに消えて行った。

そんなある日、三田の喫茶店で、お茶を飲みながら、お店の御主人と話していた。お店を経営しているのは、ニューギニアで知り合ったオジサンとオバサンであった。旅先で知り合った人達というだけで、そんな長い知り合いでもなければ、それ以外の関係があるわけでもない。知っていることと言えば、オジサンが昔、ニューギニアの戦場で戦ったということと、御夫婦には子供が居ない2人暮らしだということだけだった。「最近は、居候生活をしているんです」というような、近況の話しをしていたのだと思う。ところが、予想もしなかった返事が戻って来た。「マンションを余分に1つ買ってあるから、そこに住みなさい」。とにかく、びっくりした。そして、飛び上がらんばかりに嬉しかった。

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