ラゴス港に停泊する船が一斉に汽笛を鳴らして、年が明けた。1977年の始まりであった。汽笛の音と一緒に、子供達が打ち鳴らす太鼓と歌声がアフリカを感じさせてくれる。エアコンが動作しないので、入り口のドアと、窓をいっぱいに開いて、風が通るようにするのが、何とか暑さしのぎであった。 当時、この街で最高級であったフェデラルパレスホテルに泊まっていた。出発した時は貧乏だったが、実は、その時までに大金を手に入れていたが、その話は、またの機会にしよう。カーテンの開閉も電動化されているような最新設備にあふれていたが、どのスイッチも、まったく動作しなかった。蛇口はあっても、お湯も水も、まったく出てこない。大理石造りの素晴らしいバスタブはあるが、水の一滴すら出てこない。毎朝、ボーイに近くの川まで、バケツ一杯の水を汲みにやらせた。これで、まず水を飲み、次に顔を洗って歯を磨き、身体を拭いて、洗濯をし、最後にトイレを流すという水の有効利用を身につけた。 正月は、日本大使館に顔を出すに限る。別に招待されていたわけではないが、日本から来ているビジネスマンを門前払いするようなまねはしない。正月のパーティで日本食にありつける。それに、ナイジェリア国内を旅する出る前に、お金を預かって欲しかった。 それまでに、何度も殺されかけている。街には、餓死した死体や、交通事故でバラバラになった死体が、片づけられないままに放置されている。そんな死体を、よけながら歩くような中で、お金のつまったカバンなど持っていたら、夜まで生きていられるかわかったものではない。 「しばらく国内を見て歩いてこようと思うんですが、手持ちのお金を預かっておいてもらえませんか」と、大使館で話す。「この国は歩かない方がいいですよ。私たちは、この敷地からも出ないようにしているくらいです」とか言いながらも快く引き受けてくれた(何しに来てるのですかとは聞かなかった)。そこで、トランクから、持っていた札束を全部机の上に積み上げた。とたんに「ちょっと、ちょっと待って下さい」という返事。「相談してきます」と言って、奥へ入って行った。「これだけありますと、金庫にしまいますから・・・」とか言いながらも、なんとか引き受けてもらえた。これで、安心して旅に出られる。 この国で、飛行機に乗るにはコツがいる。それまでに、経験から学んでいた。市内の航空会社で予約を入れておいても、空港へ行くと、そんな予約は受けていないと言われる。確かに、乗客名簿に、自分の名前は載っていない。そこで、空港のカウンターに居る男に、すかさず金を渡す。とたんに男は笑顔になって、「友達を忘れていたよ。悪いことをしたな。」と言いながら、乗客名簿のトップにあった人名を消して、私の名前を書いてくれる。消された人間は、知恵があれば、同じことをすればいいわけだ。 しかし、ボーディングパスをもらったからといって、飛行機に乗れると思ったら大間違いだ。ボーディングパスの枚数は、常に席の数より多いからだ。飛行機のドアが開いたら、真っ先にかけこんで、どこの席でもいいから、シートベルトで身体を席にくくりつける。しばらくすると、席にあぶれた乗客がうろうろし始める。すると、大きな身体の屈強な男達が乗り込んできて、席にあぶれた乗客を抱えて、外へ放り出すわけだ。私の友達も、日本へ帰ると言って空港へ向かったが、しばらくしたら放り出されて戻って来たことがある。 知らない町でタクシーに乗るにもコツがいる。まず、ホテルの前でタクシーをつかまえる。そのナンバーを、運転手の目の前で紙に書く。これにサインをさせて、ホテルのフロントに預ける。もし、私が帰って来なかったら、この運転手の責任であると宣告する。それから、ようやくタクシーに乗る。だって、どこかで殺されて捨てられても、死体の山の中に埋もれるか、ジャングルの泥沼行きだ。 私は、写真を撮るのが好きだが、軍事政権のもとでは、何でもかんでも軍事機密になってしまう。町で、カメラをかかえて写真を撮ろうとしていると、向かってきた装甲車から銃口が向けられる。村で写真を撮るには、別の問題がある。村人達に囲まれて、ここは○○族の土地であって、政府とは何の関係もない。よそものは、殺すのが掟だと言われる。政府の役人に案内してもらっても、気が付くと、彼らはとっくに逃げ出しているのだ。 まあ、そんな中で、正月休みの(駐在していたのは私だけだったから、勝手に休みにしたのだが・・・本当は人質だった)旅に出た。
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