今の自分の生き方が、どこで始まったかは分かっている。1台のガスオーブンである。これがなかったら、大会社の研究所に勤めていただろう。同級生達は、名の知られた会社で、相当の地位ついてから退職している。彼等によれば、私は途中で耐えらなくなって、ずっこけていたと断言するのだが、試していないのだから分からない。少しは、自分の人生に疑問を感じたかも知れないが、来月の御飯が食べられるかなんて心配だけはしなくてすんだはずだ。そして、老後の生活を悠々自適で楽しもうと考えていただろう。今の自分は、働けなくなったら終わりだ。まあ、その分、好き放題に生きてきたのだから何も言うまい。 あれは、大学生活も終わりに近い頃だったと思う。高校時代の同級生が結婚したので、東京に居る友達が、お祝いを送ろうということになった。私は、名古屋の高校を卒業した。結婚した同級生の女の子は、ガスオーブンが欲しいと言っていた。まだ、今のように物が豊富な時代ではない。日本の高度成長が始まろうとしていた時代である。 私は、友人達から集めたお金で、ガスオーブンを買った。秋葉原まで買いに行ったが、今のようにすごい電気街ではない。パソコンが登場するのは、ずっと後のこと。アメ横の延長のように、この街が一番安かったからだ。そのガスオーブンを抱えて、私は東海道線に乗った。彼女の新婚家庭は、小田原にあった。 小田原駅から、「これから持っていくよ」と電話をすると、彼女は一瞬困ったような感じになり、駅まで出てくると言った。駅前の喫茶店で会った。御主人の方も、私が良く知っている人だったのだが、社宅に住んでいると、近所の目が気になると、彼女は話していた。平日の昼間、社宅へ若い男が来て、長い間話し込むというのは、疑われても仕方がない時代だったのかも知れない(今でも同じか?)。喫茶店で、そんなに長く話すこともなく別れた。 まだ午前中の時間だったと思う。そのまま東京へ戻ることもないので、西へ向かう東海道線に乗ってみた。東海道線は、終点まで乗ると、さらに西へ向かう電車と、うまく接続するようになっている。ホームの反対側に、さらに西に向かう電車があるのだから、つい乗り継いでしまう。いつのまにか名古屋に来ていた。名古屋で友達と話し込んでいたが、夜になって、彼も家へ帰ると言う。そのため、再び、西向きの電車の旅が始まった。始めてしまったわけだから、行き着くところまで行くしかない。 でも、途中で方向を変えた。それまで四国へ行ったことがなかったからだ。大学の友人が、祖父の選挙の手伝いのために、高知へ帰っているのを思い出したこともある。高知へ着いて、選挙事務所に顔を出した。食べる所と寝る所を確保する方法だけは、当時から身につけていたと言える。そして、遊びまくった。 (新幹線は、もうあった。単に特急券が買えなかっただけだ。もっとも、試運転の電車に乗ったことがある程度にはオジサンだが。) 東京に帰って来た時は、一文無しであった。明日の食事代もなかった。そんな状況に陥ったことは何度もあるから、たいした問題ではないが、どこかでお金の都合をつける必要はある。今なら、学生ローンでも借りればすむ話しなのだろうが、当時は、質屋か、日雇いしかない。誰かの家へ夜中に行けば、泊めてもらえて食事にもありつけるから、しばらくは大丈夫だ。 そんな時に、大学の先輩(女性)に出会った。彼女の御主人は、会社を持っていた。すぐに電話をしてくれて、アルバイトの口がすぐにみつかった。実にラッキーである(はずであった)。まず、多少の生活費を前借りして、アルバイトを始めた。1ヶ月も働いた頃だったろうか、社員にならないかと言われた。まだ、大学を卒業していなかったが、学生であっても、社員になっても問題はないはずだ。 かくて、私はある会社の社員になった。これが最初の会社である。幸いというか、不幸にもと言うべきかわからないが、給料が良かった。当時の大学卒業生にとって、最高の初任給がもらえたのは、三井物産であったが、その初任給より高かった。最初の仕事は、その会社で抱えている何人ものアルバイトの監督であった。監督は、朝、アルバイト全員に仕事の指示を与え、勤務時間を管理して、出来上がった仕事の結果をチェックしていれば良い。こんな楽な仕事はない。誰よりも早く会社に出ていなければいけないが、これは、寝袋を会社へ持ち込んで、机の下に住むことで簡単に解決した。 するとどうなるか。夕方、仕上がりをチェックすれば良いだけだ。昼間は、暇だ。近くの温泉(東京の数少ない本物の温泉)で、一風呂浴びて、普通のサラリーマンよりも多くの給料をもらっていれば、雀荘に入り浸りになっても不思議はない。そして、収入が多いにもかかわらず、私の給料の前借りは、次第に増えて行った。
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