この話しは、少々まずいかも知れない。もう時効だから、話してもいいんじゃないかと言ってくれる人が居て、書いてみようかなという気になった。本当は、きちんとした記録も残っているから、確かめながら書くのがドキュメンタリであろう。しかし、ここは私のホームページだ。思い出すまま感じたままに書いてみるので、文句がある人はメールして欲しい(私なりに言いたいことがたまっているからクレーム処理するとは限らないが)。なるべく実名が分からないようにして、多少脚色を加えるつもりだが、調べれば分かってしまうことだ。 23歳の時に始めて海外に出かけた。ニューギニア出張だった。戦後初めての定期航路客船が登場したからだ。戦前は、数多くの日本の客船が、世界の海を渡っていた。日本の船は、サービスの良さで有名だったらしい。しかし、戦後、引き揚げ船や移民船として使われていたが、客船の時代は戻って来ていなかった。とは言え、私は戦後生まれだ。ニューギニア定期航路は、8千トンの貨客船であった。その処女航海の船に乗った。横浜の大桟橋から船が出た。 8千トンの船は大きなものではない。太平洋の荒波で、木の葉のように揺れた。日本近海を過ぎると、海はぐっと静かになる。油を流したような海(石油で苦労されている方には本当に申し訳けない言葉だなぁ)という表現があるが、のっぺりした海が毎日続く。招待客として、マスコミ関係者が数多く乗っていた。初めての海外旅行で、赤道祭も楽しむことが出来た。南十字星が、つまんないことも知った。ニューギニアは、まだオーストラリアの植民地であった。我々は名誉白人という扱いだが、人種差別の中で、居心地の良いものではなかった。ニューギニア国内を飛んでいた飛行機はDC3である(知っている人なら、乗ってみたいはずだけど・・・映画「カサブランカ」の最後のシーンはDC3じゃなかったかなぁ)。帰りは大阪港に到着した。この時の話しは、何かの機会に書くこともあるだろう。 帰国後、私はクルージングの企画を始めることになった(その下見の出張だったのだ)。日本に客船の時代が再び戻って来ることを願いながら。どうやってクルージングの企画をすれば良いか、右も左も分からなかった。どこにも、誰も、そんな企画をやった人間なんて居なかったからだ。 まず目的地を決めなければならない。当時の日本で、長期休暇なんか取れるような人間は、ほとんど居なかった。ハワイ航路だったら、お客さんも集めやすい。だが遠すぎる。ほぼ飛行機の1時間が、船旅だと1日に相当すると思ってもらえれば良い。ハワイ往復時間分の休暇日数が取れる客集めは無理だとなった。当時の日本の海外旅行は、免税店での買物が目的だったから、香港という手もある。しかし、客船の時代をアピールするには弱すぎる。南太平洋航路がイメージ戦略として求められていた。南へ向かって、免税店がある近い場所はグァム島だ。そこから、さらに南へ下ってラバウルへ。なんのことはない、私が乗った定期航路の客船と同じコースである。これだと、何とか約2週間でおさまるはずだ。 次は、船を探すことだ。安くて大きな船だ。いくつもの船を見に出かけた。最終的に、選ばれたのがソ連のシャリアピン号、2万トンの客船である(シャリアピンはステーキの名前じゃないよ。あれは、シャリアピンが帝国ホテルに泊まった時に出したから、そういう名前になったんじゃないかな・・・違ってるかな)。約700名の乗客を乗せることが出来た。この規模になれば、クイーンメリー号の足元にも及ばないが、まあ、豪華客船と呼んでも良いだろう。ホールや映画館、いくつものバーやレストランを持った船だ。プールも2箇所あった。 ぐだぐだしているうちに時間は過ぎていった。ようやく企画が動き出したのは、半年後のことだ。夏休みに船旅を実施するには、残された時間は6ヶ月しかなかった。さまざまな契約から始まって、パンフレットを作成したりポスターを作ったりして、お客さんを募集する(意外に大変なのだよ)。現地でのオプショナルツアーも企画して、あらかじめ予約を取っておかなければならない。集客は、専門の旅行会社が協力してくれたが、企画を推進しているのは、若造と学生アルバイト達である。しかも、専属で、この仕事だけしていれば良いわけではなかった。主催者が民間企業でなかったから、大義名分も必要であった。セミナーを開くことになった。講師を乗せて、船の中でセミナーを開く。内容も決めなければならないし、講師も依頼しなければならない。船では24時間、何かのイベントを提供すると聞いて、24時間分のプログラムを考えて、資材の準備から人の手配もしなければならない。何をやっているか、わからないような忙しさの中で、出港は目前に迫っていた。出港したら、外部からの調達は不可能な空間の中で、24時間フル稼動の毎日が続くのだから、見落としがあってはならない。しかし、準備不足が気になっていた。 直前になって、米国がシャリアピン号のグァム島寄港は許可しないと言ってきた。当然だろう。グァムは軍港であり、ソ連の船で海外へ出られる乗員は、全員KGBだと言われていたのだから。そうなると免税店で買物をするという売りが1つなくなったわけだ。さらに、初めてのクルージング企画とあって、飛行機による旅行並みの値段に設定しなければならなかった。むちゃな話しだ。船旅は、食事も部屋も、遊びもついているのだ。それに、セミナー付きだから、有名講師も居る。切りつめられるところは、スタッフの費用。そして、ついに食事も切りつめる対象になってしまった。コックさんを雇う費用もなくなって、知り合いを頼ってボランティアをやってもらうことにした。スタッフも、それぞれの技能を持った友人に只で協力してもらう。 このまま突き進めば、問題が起きそうな嫌な予感がして、企画を担当していた私と友人は、主催者の親分(雇い主だ)に会いに出かけた。彼は、「自分が腹をくくるから、やってくれ」と言った。24~5歳の若造達は、そういう言葉に弱かった。そこまで言われるのなら、700名のツアーを何とか切り回してやろうじゃないかと思った。かくて、18日間南太平洋の船旅が始まった。
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