オジサンのよたよた話し


シャリアピン号の反乱

この表題を見て、事件を思い出した人は読まないで欲しい。

横浜港を出港した船は、一気に南下する。日本近海の波は高い。2万トンの船でも、大きなうねりの中で、前後左右に揺れ続ける。ほぼ3日間は、この揺れの中だ。私は、乗り物酔には強い方だが、毎日の船内新聞を作るために、和文タイプの文字を拾っていると、時々は背伸びをしないと変になってくる。お客さんは、ほとんどが倒れていた。食事時間になっても、食堂へ出てくる人はわずかである。配膳の失敗もあった。サービスはソ連の人達だから、日本の食事を知らない。味噌汁はスープと思われて、最初に味噌汁のお椀だけが出て、御飯とおかずが後になってしまったりした。予算が足りなくて、豪華な和食が出せるわけではなかった。

揺れがおさまった頃、最初の問題が発生した。こんな船には乗っていられないと騒ぎ出した有名人が居たのだ。それに同調する人達も出てきた。食事の問題が一番大きかったと思っている。次第に、クレームの渦が大きくなり、ついに一部の人達は、途中から帰国することになった。まずい食事という評価が日本に伝わってしまった。

船旅は続いた。赤道直下の海は、実に静かだ。ニューギニアのラバウル港に着いた。それまで徹夜の連続だった私たちは、ホテルの一室を借りて、皆でひたすら眠った。しかし、これも後で問題にされた。船を離れたからだ。部屋に残っていれば、訪問者で眠れなくなる。24時間のプログラムを運営するには、若いとは言っても体力の限界だったのだ。寄港中は、船のプログラムは、お休みだ。お客さんは、初めての陸地を楽しんでいた。私たちは、現地のトラックをつかまえて、遊びに出かけた。これも問題になった。お客さんは、ツアー会社がアレンジしているのに、ツアー会社を通さずに足を確保したからだ。うんざりするような話しであった。

復路、もっと大きな事件が起きた。サイパン島へ船は帰港した。大型船がとまれる岸壁がなかったので、沖合いに船を止めて、お客さんをゴムボートでピストン輸送した。島で遊んで帰ってくる人達も居たが、島で泊まる人達も居た。台風が接近しつつあった。

船長が突然、出港すると言い出した。沖合いであっても、海が浅い。台風が接近したら座礁の危険がある。だから、島から離れたいというわけだ。冗談ではない。お客さんは、まだ島に残っているのだ。せめて、明日の朝、お客さんを乗せるまで待って欲しい。交渉は続いた。しかし、船長は決定してしまった。船では、船長の決定がすべてである。船は、サイパン島をあとにした。お客さんを残したまま。

サイパン島に残された人達は大変だった(後から聞いた話し)。皆、ちょっと上陸するつもりだったから、何も持っていなかった。水着と、水中眼鏡、フィン程度だ。それが、朝、起きたら、沖合いに居るはずの船が居なくなっていたというわけだ。きっと、岬の影に隠れて見えないだけだと話していたら、真っ青になった旅行会社の人間から説明が始まったというわけだ(旅行会社の人まで、置き去りにされたから、多少は助かったのだが)。残された人達の中には、船で結婚式をあげる予定だったカップルも居た。この人達のために、皆で、結婚式をあげたそうだ。

船が横浜港に着いた時、サイパン島で置き去りにされた人達が待っていた。先に、飛行機で帰っていたのだ。水着や短パンで、ちょっと海岸まで行くつもりのだったのが、大旅行になって、難民のようだったと話してくれた。当然、マスコミが、どかどかと待っていた。新聞、TVが「シャリアピン号の反乱」事件として報道した。雑誌も特集記事を組んだ。

そして、私たち若者は、始末書を書けと要求された。私たちが、これ以上の対応ができなかったことを認めて、支持してくれたのは、今は亡き評論家の青地晨先生だけだった。青地さんは、どんな時にも、親身になって話しを聞いてくれた。


(シャリアピン:Chaliapin, Fyodor Ivanovich)
男性のオペラ歌手(バス)。Kazan生まれ(1873-1938)。Tiflis (1892)、Moscow (1896)、London (1913)で歌う。ロシア革命で国を離れた。

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