国境という言葉は、どこか好きだ。その向こうに見知らぬ人達が住んでいる。マレーシアから列車でタイに向かう時、寝過ごして、国境の入国審査を忘れそうになった時もある。思い出に残っている入出国審査の話しをしてみよう。 ナイジェリアが、やはり印象的だった。入国の時に、延々と列が続いている。そこへ、得体の知れないエージェント男が寄って来て、荷物運びを手伝うと言う。金を渡すと、列の横を、さっさと歩き始める。そして、いつのまにか外へ出る。そのまま放っておくと、荷物は、どっかの車に積み込まれて、彼が勝手に決めたホテルへ運ばれてしまう。外へ出た時点で、無理矢理取り戻さなければならない。旅慣れた人達と、謎のエージェントとの、トランクの奪い合いの光景を目にすることができる。 出国は、もっとエレガントだ。見せ金を持っていた方がいいよと言われていた。出国審査官の前へ行くと、でかい大男達が2人で、両側から身体をつかまえる。こちらは身動き出来ない状態になる。そこへ、もう1人の別の大男がやってきて、ポケットに片っ端から手をつっこむ。見せ金で用意しておいた裸のキャッシュはもちろんのこと、財布の中に入っていた分まで、現金は、すべて取り出される。現金がカウンタの奥に消えると、行っていいという身振り。それで、終わりだ。身ぐるみ剥がされて、すべての現金を奪われたのは、これが最初で最後である。危険な町でも、そんな経験はいまだにない。(もちろん、大半はトランクに入れておいたから、既に飛行機に積み込まれていたが・・・) 昔のインドネシアの税関もすごかった。荷物を片っ端から開けて、何かひと悶着起こそうと待ち構えている。これは輸入禁止だから駄目だと税官員が言い始めたら、なにがしかの税金を払えばいいよという合図ではある。しかし、(貧乏だったこともあるが)そんな金は一切払いたくない。そこで、駆け引きと交渉が始まる。具体的に法律文章を見せて説明しろとか、私には支払う必要性は感じられないとか、延々と交渉を続ける。飛行機の乗降客は多いわけだから、グダグダ言う奴に関わっているよりは、他のカモを当たろうと相手が思うまで続けていれば、こっちの勝ちだ。 しかし、本当のことを言うと、たいていの場合、税官員が正しい。いつも、あまりにもうるさいから、インドネシアの輸入禁止品目とか関税規則を読んだことがある。読み方次第で、いろいろな解釈ができるように思われた。本当に良く出来ていると、変なことに感心したものだ。 今は、インドネシアも観光客大歓迎である。ビジネスマンには、多少うるさいが、昔のような駆け引きの楽しみを味わうことができなくなって面白くない。 やっぱり、入出国審査は、がたごともめるのが旅の楽しさだ。ぐたぐたやっていると、外国へ来たんだなぁと楽しくなってくる。税関が、イタズラのおもちゃなんかみつけてくれたりすると、やったぜと思いながら得意になって披露してしまう。 しかし、たった1回だけ(某国にてということにしておこう)、賄賂を支払ったことがある。その時は、急いで日本を出かけたので、ビザを持っていなかったし、帰りの切符も持っていなかった。入国できない状態だということは知っていた(書類にも、もちろん書いてある)。たいていは、ビザを取ってこいと追い返される。でも、まあ、なんとかなるさと思っていた。ブースの入国審査官と話しをつけようと考えていた。でも、拒否されてしまった。 上司の部屋へ行く。パラパラと、私のパスポートを見ながら、その上司は、こちらも見ずに言った。「私も忙しいが、あなたも忙しいだろうね」。その瞬間、ほっとした、助かった。言いたいことはわかったから、余分な話しをする必要はない。黙って100ドル札を2枚、パスポートの下にすべりこませた。同時に、ポンポンとハンコが押された。忙しい男が2人、時間の節約ができたのだ。 ジャカルタの税関で、あまりにも懇切丁寧に荷物の交渉をしていて(言葉のお勉強には最適)、外へ出た時に、パスポートがなくなっていたことがある。しょうがないなと思って、大使館(いや領事館か?)で再発行をしてもらった。ところが、窓口の向う側に立っていた係官が、突然、再発行パスポートを窓口の向こうに置くと、紙を1枚取り出した。その紙を読み始めた。私は、そこにあるパスポートをもらえばいいだけなのに、何で、この人は、こんな紙を読んでいるのだろうかと思いながら、イライラしていた。紙を読み終えた係官から、ようやくパスポートを渡されて外に出た。それは、「訓告」という処分ではなかったかと、知り合いから言われた。そうかも知れない。ちなみに、その時のパスポートには「公用旅券」と書かれていた。 空港を出た時になくなったと言えば、ハワイで、厳重な荷物審査を受けた。そこまでやるかよ~という程度まで、すべて開いて徹底的にやられた。社員旅行の観光だったのに、私だけ、ずっとつかまっていた。そして、空港の外へ出た時に、航空券が紛失していた。・・・帰れないのは悪くない(と思った)。 ケニアのナイロビ空港も楽しい所だ。アフリカンマニーが、肌の色の違う子供達を何人も連れながら、「お父さ~ん、元気でね、さよ~なら」と明るく手を振っている光景を見た。この子は、アメリカ人の子でね、この子はイギリス人の子供なんだよ。こっちの子は、日本人の子供でね、やっぱり日本人の子供が一番頭がいいんだよ、と明るく話す。でも、この明るさは何だろうか。アジアは、もっとWETかも知れない。明るい顔で大声で見送る彼女達の手が、飛び立つ飛行機に向かって振られるような光景は見たことがない。 ところで、ケニアとタンザニアの国境線は、木の杭がポツポツうってあるだけだった。 そうそう、私の友達で、サウジアラビアの砂漠まで、国境線を引きに行った男が居る。年間契約で、ものすごくペイが良い仕事の話しがまわって来た。若い頃で、自分も行きたかったが、もっと生活に困っていた友達にあげてしまった。何Kmおきかに、石の基盤を埋め込む作業だ。砂漠の中を、トラックで移動しながら、国境を作って行く。食料は支給、水は、空気から作るとかいう最新設備の車もあったらしい。たまに、外人の居るホテルまで出て来ると、プールサイドで、足首まですっぽりと覆われた水着の女性(アラブの女性は水着も見せない)を見ていたと言っていた。 現場ではお金を使うことはないから、3年も続ければ、東京でも充分、こじんまりした家が持てる程度の収入になる。実にたくさんの人達が、家を建てるとか言って出かけて行った。しかし、実際に、家を建てたのは1人しか知らない(ちょっと変わっている)。11ヶ月続けると、1ヶ月の休暇が与えられる。女性を見ることもなく、砂漠に11ヶ月も居て、若者に大金が渡される(そんな過酷な仕事を受けるのは若者だけだ)。飛行機でちょっと飛べば、そこは花の都パリ。もう結果は目にみえている。仕事が終わっても、まっすぐ帰って来るわけがない。正常な人間なら、無一文になるまでヨーロッパに沈没する。私の友達も同じだ。 話しが長くなってしまったようだ。途中からずれたかも知れない。まあ、よた話しです。
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