オジサンのよたよた話し


トランク1つの人生再び

2000年の夏、半年ほどの旅を終えて成田に着いた私は、トランクを3個持っていた。1つには身の回りの生活用品、もう1つは仕事関係の道具、最後の1つは皆へのお土産が詰まっていた。
久しぶりの我が家へ、タクシーで帰ることにした。六本木あたりを通過しながら、たった半年なのに東京は変化が激しいなぁと感心していた。しかし、最も変化が激しかったのは私自身なのだと、まもなく気付かされた。

タクシーからトランクを降ろし、自宅の鍵を開けた。しかし、私は家に入ることが出来なかった。私の場所は、そこにはなかった。さて、どうしたものか。暑さの中で、噴出す汗を拭きながら、私は多少パニックに陥っていた。自宅があった原宿の町は、若者達が行き交っていた。明るい笑顔と話し声が通り過ぎる中で、パニックに陥っている自分は、あまりにも場違いであった。

もう20数年も昔のことだが、ナイジェリアから帰った時にも、家はなく、降りしきる雪の中で、どうしたものかと考え込んだ。人生は、実に変化に富んでいる。今回は、雪ではなく猛暑の中だった。しかし、持っているのは、トランクだけというのは同じだ。

駐車場に止めておいた車は、すっかりバッテリーがあがっていた。帰れる家がないということは、居場所を探さなければいけない。JAFを呼んだ。会社が引っ越していることはメールで知っていた。まず会社の場所を教えてもらうことにした。会社は、すぐにわかった。近くにホテルをとった。ジャカルタで半年間、ファイブスタークラスのホテルで優雅に暮らしてきた私にとって、東京のビジネスホテルは息が詰まりそうなくらいに狭かった。
ジャカルタを発つ時に、お土産だけ東京まで運んだら、すぐに戻って来るように言われていた。パッキングしたままのトランクを持って、そのままジャカルタに帰りたい気分であった。

ビジネスホテルからウィークリーマンションに移ってみた。多少、部屋は広くなったが、値段はあまり変わりがない。一生、ホテルで暮らしたという有名人も居るが、彼のように恵まれた生活は、夢のまた夢。なんとか部屋を探して落着かないことには、蓄えが底をつく。蓄えが底をつく前に、落着いて仕事を探さないと、干上がってしまう。

若い頃から、私は、青山、原宿、六本木、赤坂で仕事をしたり暮らしたりしてきた。昔はどこも、静かな大人の町だった。いつのまにか町は変わってしまった。今度は、下町で暮らしてみたい。不動産屋に言った。「隅田川に面していて、川と花火が見える南向きの部屋はありませんか」。ごく単純な要求だと思ったのだが、そうでもなかった。
隅田川は、片側に高速道路が走っている。反対側はビルが建ち並ぶ。アパートがあっても、ビルの陰や公園の木々の陰になってしまう。何軒も何軒も不動産屋を歩いた。浅草雷門の前に、手相見が居た。初めて手相を見てもらった。「10月になると運が変わります。来年になると、運気が強くなります」。

歩きくたびれて、駒形でみつけた南向きの部屋で決めてしまおうかと話していた次の日、そろそろ仕事を探さないと生活に困ると焦り始めた頃、一応、ウィークリーマンションの契約を延長した次の日、10月になっていた。1軒の小さな不動産屋。一人しか居ない若いお兄ちゃんが、やる気なさそうな、けだるい声で言った。「不便なとこでもいいですかぁ~」。
かくて、隅田川に面して南向きで、花火会場となる桜橋を目の前に望むアパートをみつけた。もはや、そこは浅草とは呼ばないと友人に言われた程度には離れているが、最寄駅は一応、浅草。

10月7日、会社の皆が、部屋の採寸をして家具を注文してくれた。友人が、冷蔵庫とTVを届けてくれた。そこへトランクを運び込んだ。ジャカルタを出た時から着ていた服を脱いだ。引越し完了。
夕方、ふらりと近くの商店街を歩いてみた。高級自転車など1台も飾っていない小さな自転車屋。修理道具を並べた土間。買い物籠のついた自転車を買った。下町には坂がない。動き回るには自転車が便利だ。自転車で夜の町を走っていたら、ずっ~と前から食べたかったものをみつけた。「おばさん、レバニラ定食」。
トランクを机にしてパソコンに向かう。カーテンの無い部屋からは、隅田川に町の光が映っているのが見える。

人生、それほど多くのものは必要ない。トランク1つあれば、どこでも暮らして行ける。蓄えが少しでもあれば余裕が持てるのだが、歯の治療費とスリに盗まれて、乏しくなっていた私の蓄えは、部屋を借りたので、完全に底を尽いた。

さて、どうしようかと思っていたところへ、友人がふらりと顔を出した。実は、帰る家がなくなって金もないんだよ、と話していたら、友人が言った。「ウチの会社宛てに請求書を送っておいてよ。今期は儲かっているから」。どん底になると、いつも誰かが助けてくれる。
トランク1つしかない貧乏人生でも、良き友に恵まれたことに、いつも感謝している。

ここに記載された内容は、どのような形でも、引用することも、ストリー展開を真似ることも禁止します。これを完成させるのが、老後の楽しみなのです。 Copyright (c) 1998 ojisan