私にとって、後からバブルと呼ばれるようになる時代の始まりは5月のことだった。好景気が日本を覆っていた。新ビジネスが成功した話しをあちこちで聞くようになった。土地だけでなく、大型ジェット機だろうが絵画だろうが、購入すれば確実に値上がりする。何も考えずに高額なものを購入して、倉庫に放り込んでおくだけで、大儲けができたし、有能な経営者と呼ばれた。借用書に実印を押して持って行けば、銀行は無担保で何億円でも貸してくれた。何億円のお金を借りても絶対に儲かると信じてもらえれば、そして実際にあらゆるものが値上がりしていたら、投資(いや、投機という方が正しいだろう)資金を得るのは簡単だった。もし失敗しても、何億円なんて借金は返済不能なのだから、気楽なものだ。 私は、ソフト会社の役員をやっていた。大きくはなかったが、そこそこの規模ではあった。すぐ目の前に、成功のチャンスは、いくらでも転がっていた。役員用の車として、2シートのオープンカーを手に入れた。会社の近くに出来たスポーツクラブの会員権も買った。収入は、確実に増えていた。 5月29日に決断した。久しぶりにダークスーツを着て、某銀行の会議に臨んだ。コンピュータの超名門企業D社が手をこまねいていた巨大システムの構築を、私なら納期通りに完成してみせると宣言した。 ダウンサイジングとかクライアント/サーバ・システムはD社から始まったと言っても過言ではない。その仕事を、まるごと横取りできたのだ。それだけで、私は相当に興奮していた。例によって、私の専門分野ではなかったし手がけたこともない仕事であったが、日本では誰もが同じスタートラインに立っていたから、先に走り始めた者が勝てる。そう信じた。ビッグドリームの当たり籤を1枚手に入れたと感じていた。 日記を調べてみたら、この契約を決断した日の晩は、山の上ホテルで食事をしていた。人生の変わり目と、このホテルは不思議な縁がある(ナイジェリアから帰った日も、ここだった)。この契約には、秘密保持条項がついていた。秘密保持は、契約内容だけでなく、契約が存在したことすら漏らしてはならないという厳しいものであった。秘密保持に期限はなかったように思うが、契約当事社の銀行が今ではなくなってしまったのだから、もう終わりだろう。 仕事を受けたとは言っても、私には金融の知識はなかった。通信の知識もなかった。データベースの知識もなかった。UNIXの知識もなかった。C言語の知識もなかった。そんな知識や技術を持つ部下も居なかった。アセンブラの開発が主だった会社で、使える社員も居なかった。 次の日から勉強が始まった。気ままに暮らしていた生活を一変させて、朝早くからシステム関係の講習会に出席する。自分が、まず専門知識を身に付けなければ何も進められない。データベース、通信、ネットワーク、C++言語、OSなど当時としては最新の技術を学ぶだけでは足りない。アプリケーション構築のためには、金融の専門知識も必要である。それを、オブジェクト指向のモジュールで実現する。金融の専門技術だって、海外から入ってきたばかり。先物取り引きといっても、日本には場がなかった。最初の実験はシンガポールとの接続から始まった。今なら、新聞に用語解説が載るが、当時は、よほどの人以外は言葉を聞いても、どんな分野かも想像できなかっただろう。先物、アービトラジー、オプション、サイメックス、ALMそんな言葉が日常的に使われる世界の話し。 当然のことながら、それまで抱えていた仕事もある。ビックプロジェクトを推進するための組織も作らなければならない。あまりにもビックプロジェクトであるため、既存組織だけでは部隊が作れない。リクルートも始めた。資金繰りの問題もある。 あらゆることが動き始める時がある。忙しくなると、斜面をころがる雪玉のように、次々に忙しさが増えて行く。公私共に、よくもあれだけの処理ができたものだと、後から感心するほど事件が起こった。それでも、ころがり続ける間は、何とか走り続けられるものだ。 ビッグプロジェクトが始まると、会社という組織につきものの根回し、そして権力闘争も始まった。6月になると、社長を含めて、役員の派閥が鮮明になってきていた。従来の会社規模では想像もできなかったほど、巨大なビッグビジネスを、私が持ち込んだからだ。チャンスでもあるが、権力構造が変わる。社長を会長にしてしまって、自分が会社の経営を支配しようと考えた程度に、私は強気の役員であった。 しかし、私は、権力の欲望もなければ、金銭欲も強くない、肩書きなども一切要らない。「この会社を3~4年任せてくれたら、あんたを大金持にしてあげるよ」という取引を、社長に持ちかけた。私のことを良く知る社長にとっても(私が権力や金銭の欲望など持っていないのを知っているはずだったので)悪くない取引のはずであった。大プロジェクトを軌道に乗せるまで俺に任せろと言っているだけだし、こんなプロジェクトを運営できるのは俺しか居ない。 しかし、社長は迷っていた。俺の権力が増えることよりも、俺の意見に賛同する人間が増えることに大いに神経質になっていた。だいぶ後の話しだが、「あんた俺が恐かったんだろ」と社長に聞いたことがある。「恐れていたよ」と答えた。彼は自分の会社を息子に譲ることが夢で、それを俺に邪魔されるという恐怖心を持っていたのだ。私は、ビックプロジェクトを動かしてみたいという冒険心は持っていても、ずっと経営をやりたい思うほどには根気も執着もない。彼が会社を息子に譲りたいと思っているのは誰の目にも明らかだったし、俺は、小金がたまったら次の遊びを考えていただろう。 最後の調整は、軽井沢で行うことになった。プロジェクトは5月にスタートしているのに、8月末になっても、社内体制ができていなかった。社員のうちから、何人をビッグプロジェクトに振り向けてくれるか、部隊をどう組みたてるのか、客先企業と、どう連携を進めるか。8月31日、軽井沢へ向かった。旧軽井沢で最大の敷地規模、私有地内に大きな川が流れ、ヘリポートまである別荘といえば、知っている人にはすぐに場所がわかる。 会社側は、確かにプロジェクト要員を提供してくれた。入社したばかりでコンピュータなんか触ったことがなかった新人、C言語なんか見たこともない設計書書き、クライアント/サーバ型システムなど見たこともないファームウェアの技術者、他のプロジェクトで余ったド素人達だった。機材もない、専門知識もない、寄せ集め部隊。プロジェクト契約から、既に4ヶ月が経過していた。 もっとも、そんなド素人集団だったが、今では、コンピュータなんか触ったことなかったプータローが、某大手企業で優秀なSEとして評価されるまでになっているし、この子達、何ができるのかと思っていた若者達が、今ではシステム開発や運営の管理者として後進を指導している。反対に、多少は使えるかと期待した自称プロは、ほとんど使いものにならなかった。皆の名誉のために書いておく。 9月1日、私はオープンカーの幌をあけて、一人で浅間山の鬼押し出しまで車を走らせていた。私は、ビックプロジェクトの契約を取って、これで一気に会社を大きくできると、いい気になっていた。会社に利益と成長をもたらした役員として、役員会の支持が得られるものと思いこんでいた。 梯子の上に登って喜んでいたのは、自分だけだったのだ。気がついたら、梯子はなかった。新しい仕事に挑戦したいと言っていたはずの会社も社員も、そこにはなかった。いざ仕事が現実になったとたんに、皆がす~っと引いて行った。新しい分野やビックプロジェクトに挑戦するよりは、今まで通りの小さな下請けソフトハウスで細々とやって行く方を皆が選択したのだ。しかし、梯子を登ってしまった私には、後戻りする道はなかった。
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