オジサンのよたよた話し


PenPointとの出会い

私は、ジャカルタからサンフランシスコに向かった。東京をトランジットするのは少々面白くないと思ったので、シンガポールと香港で乗り継ぐことにした(これがクレジットカードを偽造されて困ったことになる始まりだったのだが・・・またいつか、書こう)。シリコンバレーで生まれたGO社のセミナーに出席するためだ。飛行機にも、電話が付き始めていた。モーバイル時代の始まりが来ていた。

ぷ~太郎だった私に、仕事を紹介して下さったのは某ソフト大手のOさんだった。PenPointという新しいOSが開発された。これを日本で普及させる仕事をやってみないかというお誘いだった。日本の大手パソコンメーカーもごぞって注目していた。画面上でペンを動かすジェスチャーと呼ばれる動作を、コマンドにしている。しかも、OSが、当時としては画期的な完全なオブジェクト指向の言語で構築されていた(おそらく、今でも、これほど見事な体系のものは出てきていない)。

ホテルニューオータニで、展示会が開かれた。開発中のマシーンが展示されて、OSが紹介された。モーバイル・コンピューティングというのは、まったく新しい時代の幕開けを示すものでもあった。モーバイル端末がコンピュータと接続された時に、データの同期がなされて受け渡されるという概念も、まったく新しいものであった。ジェスチャーと呼ばれるコマンドも、私達が紙とペンに対して持っているイメージとぴったり一致しており、誰にでも馴染みやすいものであった。手書き文字認識も使えるレベルに仕上がってきていた。

1992年6月15日、私はサンフランシスコに着いた。既に1日目のセミナーは始まってしまっていた。当時、GO社で学生アルバイトをしていたKさんが迎えに来てくれた(今は、某有名企業の日本支社長とか・・・)。

101号線を南へ車は下って行く。立体交差。また、デジャブだ。どこかで見た立体交差だ。あの立体交差を左に向かって降りた所だなと感じた。この時の感じは、帰国してから日記を調べて確かめた。その前年、私は変な夢を見たのだ。前年は、まだ、ぷ~太郎ではなかったし、アメリカへ行く仕事でもなかった。夢の中で、自分はアメリカに居た。何でアメリカに居るのだろうかと、とても焦っていた。アメリカに行くような状況が生まれるはずはないのだ。その情景を日記の中に書いていた。そして、1年後、まさに夢に登場したその情景の中に居たのだ。

セミナー資料として2巻のビデオテープを渡してもらったのだが、まるで何も頭に入らないまま、翌日からのセミナーに出席することになった。日本人は私以外に、GO社へ入社したIさん、大手N社から3人が出席していた。アメリカ人達の間からは、次々に質問が出されるが、私達は、日本語で、ああでもない、こうでもないと相談しながら演習問題に取り組んでいた。英語の上に、C言語の知識、それにオブジェクト指向とくれば3重苦である。ポインタと構造体が、朦朧とした時差ぼけの中で、ぐちゃぐちゃになっていた。

泊まっていたホテルはフォスター市、GO社はサンマテオ市にあったが、歩いても行ける距離であった。毎日、Iさんが迎えに来てくれた。

アメリカのベンチャー企業文化の典型のように、コーヒーやソフトドリンクは飲み放題、スナックも用意されている。昼飯も付いている。しかし、若い現役プログラマ達の中で、私のようなオジサンが、会話について行くのは、相当な苦労である。カリフォルニアは禁煙だと思って覚悟して来たのだが、結局は、あいまをぬって建物の外へ飛び出す回数が増えただけだ。3日目くらいになって、ようやく言語の感じがつかめて来た。
しかし、1ヶ月ちょっとで、日本でのセミナーを開けるようにするには、徹底的に勉強しなければならない。でも、メーカーのN社から派遣された若い3人は、ハードウェアへのインストールをするのだから、もっと大変だろう。ちなみに、1人は女性であった。

これが最初のPenPoint OSとの出会いである。

家へ帰って来たら、出かける前にカミさんが入院していたので、部屋にはにおいがこもり、電気釜は真っ青な黴に覆われていた。冷蔵庫の中でも腐敗が始まっていた。まずはコンビニで下着を買って来て、持ち帰った資料を開いたところで、そのまま眠ってしまった。

(ここを見てくれ~)

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