一年前に見た変な夢を思い出したのは、突然、海外での仕事の話しがまわって来た時だった。実は、少し前に、私は海外での仕事は、もうやめると宣言していた。だから、以前のような仕事に復帰するつもりはなかった。それなのに、その夢は、あまりにも唐突だった。 夢の中で、私は低い建物しかない街に居た。今までに見たことも行ったこともない街だった。この道路を、どこまでも走って行くと国境線に達するはずだと、夢の中で思っていた。だから、島国とかではないはずだ。踏切りがあったから、鉄道のある街のはずだ。自分は、細い路地の奥へ入った右手の建物で仕事をしていた。2階あたりが仕事場のようであった。天井が八角形の建物に毎日のように出入りしていたのが、とても印象に残った。あまりにも唐突な夢だったから、日記に書いた。 「ベトナムへ行ってもらえませんか」という電話がかかってきた時、今回は、すぐに夢のことを思い出した。日記を探して、1年前に見た夢の記述をみつけた。「これだ、これだ。きっと、この夢に出会うに違いない」と、妙に納得した。 丁度、母が癌になって、東京の病院に入院していた。入院させたまま長期出張することになるので、一応、報告に行った。実は、母は非常に危険な状態ではあったのだが、私には何故か(ある偶然が重なったので)大丈夫そうに思えていた。この話しも、そのうち書くかも知れない(そして、実際、完治してしまった)。「ちょっと、しばらくベトナムへ行って来るよ」と話しながら、きっと、こんな街だと思うよと、1年前の夢と、その中の情景を話した。「気持ち悪い話しをするねぇ」と、母は、この話しを嫌がった。私としては、証人まで作って予想通りだったら、こんな面白いことはないと思っていたのだが・・・。 電話がかかってきた時、私は本当に一文無しであった。だから、どんな仕事でも嬉しかった。ベトナムでの仕事を引き受けた。 そして、私は、初めての国ベトナムに向かった。香港でベトナム航空に乗り換えてハノイ空港へ。空港ビルは、小さくて暗い建物だった(最近は、明るくなったし、コマーシャルまである・・・)。いかにも社会主義国という雰囲気の制服を着た入国審査官が、1つ1つ丹念に審査をしていた。むちゃくちゃ遅かった。税関も、暗い中に小学校の机のような感じで並んでいた。1つ1つの見た目の印象は、暗くて官僚的で、如何にも入りにくい国というものだったが、にっこり笑った入国審査官も税関職員も、本当に親切で、見かけの印象とはあまりにも異なっていた。暗くて古い建物は、隅には埃がたまっていそうな感じなのだが、ゴミもなければ埃もたまっていない。細かい所まで、実に清潔に掃除されていた。 ホテルは、少し中心街から離れていた。フロントのある建物から、裏手にまわるとアパートのような建物があって、ここが部屋になっている。部屋には、中国製のポットと、急須と茶碗が置いてあった。バスはなかったが、お湯が出るシャワーがあった。これだけあれば充分満足だ。石鹸だろうがバスタオルだろうが、必要なものは何でも持って行くのが習慣になっている。「現地で調達できるのは水とオ○ナだけだと思え」というのが誰かの口癖だった。 翌日、朝の迎えの車で、ホテルから仕事場に向かった。道路は、自転車で埋め尽くされていた。その3年後には、自転車は、すっかりオートバイに変化してしまったが、当時は、自転車ばかりだった。 表通りの交差点を過ぎて、自分がどこへ向かっているのかがわかった。夢の通りだとすれば、あの路地の奥だ。そして、予想通り、路地の奥へと車は入って行った。路地の奥の右手の建物、その2階。すべて夢の中と同じだ。とっても嬉しかった。そして、私のハノイでの仕事が始まった。 町は清潔で安全、食べ物は美味しい、皆親切、女性が奇麗、こんな素敵なところはないと、楽しくて仕方がなかった。仕事は、確かに嫌なことも多いのだが、若い世代は勉強もしているし、意欲的だ。ベトナム戦争の世代が、平和な時代になって、技術や変化に追いついて行くのが課題だろうが、まもなく急速に発展するだろう。 鉄道関係の仕事だったので、駅や線路、バスターミナルなどをまわって歩いた。特急列車の車掌さんは、とてつもない美人が各車両に配属されていた。どの建物も、天井が高くて、意欲的なデザインの建築だったりする。単純な四角形の天井ではなく、丸みをおびたドーム形状になっていたりする。これが、夢の中に出てきた8角形の天井かしらとか思って、ハノイ駅の天井を眺めてみたりしたが、どうもそうではなさそうだ。 低い建物の町並み、オフィスの場所、国境まで走る鉄道、夢の中に出てきた情景に一通り出会うことが出来た。しかし、天井が八角形の建物には出会わなかった。ハノイ滞在が後半にさしかかったころ、ホーチミン(昔のサイゴン)へ出張する予定がはいっていた。ハノイには天井が八角形の建物がないとすると、おそらくサイゴンで出会うのだろうと考えていた。だが、残念ながら、サイゴンでもみつからなかった。 帰国する日の朝、ホテルをチェックアウトした。フロントの女の子が、電話で私のクレジットカードの確認をしていた。夢は、ほぼその通りのデジャブであった。1つだけ発見できなかった情景は、しょせん夢なんてそんなものだろうなぁと思って諦めることにした。それに、再度ハノイに来ることが決まっていたので、次の機会に出会うのかも知れない。 クレジットカードのチェックは手間取っていた。結果的には、1回の支払では、ベトナムの限度額を越えているようで、何枚かの支払いに分割することになったのだが、それが決まるまで長い時間、待たされることになった。飛行機の時間は迫っていたが、乗り遅れるのも悪くはないと思った。ロビーのソファに腰を降ろした。ゆったりしたソファが、フロントから離れた位置に置いてあったのだが、今まで座ったこともなかった。このホテルは、事務棟から離れて各部屋があるので、フロントでは鍵を受け取るだけだったからだ。 ソファにゆったりと座ったら、顔が天井を向いた。その天井は、八角形だった。夢の中で毎日出入りしていた建物に、今、自分が居ることを発見した。
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